いつの日か2人は恋人

Love is knowing we can be

いつの日か、2人は恋人

Kei Katsura

母は、最近は毎日少しずつどこかしら体調を悪くしている。こうして一歩一歩、人生という階段を確かに降りて、安寧にたどり着くのだと教えてくれている。あれほど強大に立ちはだかった障碍が崩れ去って行く。現世を楽しみなさい。自由になりなさいと。自分に正直になろうと思った。

1964年4月

「桂君、中学はどこ?」

「三中。」 

(彼女にっこりと笑って)

「そうなんだ。」 

(ぼく、彼女を見つめて)

「福田さんは?」

「大崎中。」

たったこれだけの会話。なのに、一生の恋に落ちた。

彼女の全てが、ぼくには特別に思えた。着ている制服もシャツも靴も、上着に付いている埃までもが、そこに付いていることが大切で意味ある事だと思った。大崎中学。初めて聞く中学校だったけど、勝手に憧れた。すうっと、彼女に、自分の全てが吸い込まれていく気がした。これは、説明しにくいけど、一瞬にして彼女の全てが自分のお気に入りになった。そう、そういった瞬間。いたずらっぽい目、筋の通ったちょっと上向きの鼻、少し生意気な先の尖った上唇、キュッとしまった足首は、特にぼくのお気に入り。それからは、毎日少しでもそばに居たかった。意識の中から離れなくなった。兎も角、いつも彼女を見ていないと苦しかった。

高校一年の時は、席が隣だったから、彼女がわずかに動く時の空気を、気づかれないように、感じているだけで幸せだった。時々、彼女は先生を見るとも黒板を見るともなく、はるか彼方を見つめ、唇をうすくひらいていた。暖かい息が漏れる。静かに、誰にも気付かれないように、深く、まだ生きている息を吸う。ぼくは秘密を独り占めにした。彼女の髪は、いつも一本一本が生きていて、語りあっているかのように、微かに微笑んでいた。光沢を優しく包み込んだ、絹のようなしなやかさと、隠れた強さを湛えた、柔らかな長い髪。強く抱きしめたかった。授業がずっとずっと続いて欲しかった。彼女が席を立った後、密かに、長い髪を捜した。それがあればいつも彼女と一緒。早く家に帰り、その髪を手に包み、そこから広がる甘い香りに浸っていたかった。生まれて初めての恋に一途になった。

高校時代は、どうしても自分の気持ちを伝えることができなかった。自分が恋人としてふさわしい相手とはとても思えなかったからだと思う。彼女には、全てにおいて一番の者が恋人でなくてはならないと勝手に決めていた。それに比べてぼくは、まだ背が低くって子供っぽいし、ハンサムでもないし、運動神経は鈍いし、文系だし。ぼくの高校では東工大が近いというだけの理由で理系の連中が幅を利かしていた。高校二年からクラスが変わってしまった。A組とH組という一番離れた教室。何という不幸。何でクラス変えなんてするんだ。担当した先生は、きっと彼奴に決まっているなどと妄想して恨んだりもした。しかも、A組は3階でH組は1階だから廊下でたまに会うという幸運もない。これで最後のクラス替えだから、彼女を毎日見ることは無くなった。

高校三年の時の運動会で三学年が一緒に参加する、最も注目を集める棒倒し競技で、ぼくは一人誰にも打ち明けず時間をかけて策を練った。自分としては、それこそ命がけで、A組B組連合の赤い棒の一番上に“一番乗り”した。でも彼女は見ていなかったと思う。他の人は、ぼくが“一番乗り”した事を“奇跡”として、五十年以上経った今でも、クラス会で話題になるというのに。好きだとも、なんとも、伝えていないのに随分勝手なものだ。いつの日か彼女から、突然、ぼくが大好きだと手紙がくるのではないかという甘い幻想に浸っていた。当たり前だが、そんな事は全く起こらなかった。卒業式でもなかった。お互い挨拶することもなかった。

彼女の一番好きな大学は、一橋大学らしいと人から聞いていた。きっとそうだという確信みたいなものがあった。だから、迷う事なく一橋大学経済学部を受験して4月に入学した。7月まで待って、初めて彼女にアメリカから葉書を送った。最初のデートは、8月だった。アルバイトの仕事でアメリカから帰国した日に、羽田に迎えに来てくれた彼女と六本木のアマンドに向かった。そこで何を話したかは、心臓がはち切れそうでドキドキしていて、全く覚えていない。彼女は、花模様の透き通る生地の仕立ての良さそうな、清楚だけどお洒落なミニのワンピースを着ていた。次のデートで『華麗なる賭け』という映画を有楽町で観た。アメリカ的な生活(洒落た生き方)を一緒にしようというぼくの意思表示だったと思う。2人は恋人になった。そして、3年後、雪が散らつく寒い冬の12月28日に学生結婚した。

両親に反対された駆け落ちだったから、それまでの贅沢三昧の生活は一変した。青山学院の短大を卒業していた彼女は、国立のレコード店に勤め、ぼくは大学には殆ど行かずありとあらゆるアルバイトをした。最低限の生活になった。ぼくは毎日が充実していたが、彼女はいつもぼくの両親に認められなかったことの恨み辛みをぼくに当てた。ぼくには、どうすることもできないから、謝るしか無かった。自分の努力で彼女の傷ついた心を癒す事ができなかった。だから、ただただ虚しかった。彼女が哀れに思え、いつも申し訳なく思った。貧乏になったけど、ぼくは彼女の両親に気に入られていて、それなりに、心穏やかで心地よかった。

1年後の1月3日に彼女は、突然去って行った。仲の良かった彼女の父親と川崎大社に2人で初詣に行って、ほろ酔い気分で国立の家に帰ったら、ほとんどもぬけの殻になっていた。下着が一枚だけ、畳の上に落ちていた。動揺した。その日のことは、落ちていた黒い洒落たショーツも、古びた畳も、不安も、今でもよく覚えている。しばらくして、彼女は、恋人と残されていた荷物を取りに、ムスタングのオープンカーで国立の借家まで来た。その時、不思議と、絶望感はあまり無かった。人生で最も悲しかったのは、その数日前に、離婚の話をする為に、彼女と彼と3人で、青山の喫茶店で会った時のことだ。風邪をひいていたのか、咳込んでいた彼の腕に優しく手を伸ばし、「あなた大丈夫」と彼女が彼に向かって言った。ぼくは死にたかった。何も言えなかった。小さく手が震えた。彼女は彼を愛している。彼の着ていた高価そうなセンスのいいセーターが眩しかった。別れる手続きをすぐする事に同意した。何でもいい、早く店を出たかった。外に出ると体が震え涙が溢れた。自分が酷くショボくれていると思った。パラパラ降る雪が顔に落ちて冷たかった。いつの日か、必ず、自分は彼女に相応しい理想の恋人になると誓った。

こんなに長い年月が経ったのに、何も変わらない。すべては月日が解決してくれると、恋に浮かれていると思ったぼくを祖父が諭した事があった。が、それは嘘だ。今でも、彼女が再婚する前日にぼくにくれた、鉛筆で手書きされた、ジョン・レノンの「LOVE」の詩を持っている。その本当の意味を時々考える。

Love is real, real is love. (愛は真実。真実が愛。)

Love is feeling, feeling love. (愛は心。そう心にのままに。)

Love is wanting to be loved. (愛は愛を求める。)

Love is touch, touch is love. (愛は触れること。触れることが愛。)

Love is reaching, reaching love. (愛は求めること。そう求めること。)

Love is asking to be loved. (愛は愛を探す。)

Love is you. You and me. (愛はあなた。あなたとわたし。)

Love is knowing we can be(愛は知っている。いつの日かふたりは恋人。)

Love is free, free is love.(愛は自由。自由が愛。)

Love is living, living love.(愛は生きること。そう愛に生きること。)

Love is needing to be loved.(愛はいつも愛に生きる。)

長い年月をかけてぼくはようやく愛する自由を得た。

母は、娘(靖子)と息子(ぼく)と孫(るみ)が見守るなか、2019年10月22日23時15分、上田市の山王病院で、穏やかに、その93歳の生涯を閉じた。

第2章 「貴方って、相変わらずね」

私、既に、貴方と幽明境を異にしている。だから、貴方には見えないものも、感じないものも、私にはわかるの。でも貴方ならきっと理解できる。それを伝えたいと思って今この手紙を書いている。

『いつの日か、2人は恋人』を読んだ。昨日のことのよう。貴方って、相変わらずね。文章が素敵。昔もらった手紙、いつも貴方の言葉が、甘い旋律のように、心の中で舞った。叙情的な陶酔よ、きっと。私、飽きもせず読み返して、その流麗な世界に陶然と心地よく、浮き立っていた。そこにいる自分が好きだった。そして貴方を愛した。肩寄せて手紙を読んでくれたことも覚えている。お願いすると詩の朗読もしてくれた。その甘美な音色に抱かれて、夢心地だった。何度も何度も、読んでもらったのを覚えている。宙の、悠久の、妙なる音楽。その中を舞っていた。声が大好き。素直に手紙を持つ貴方の指に、貴方に、抱かれたいと思った。

貴方の元を去る時、貴方は詩人だから、ジョン・レノンの『Love』を書き残してきた。覚えているでしょう。この手紙を読めばその時の私の気持ちがわかると思う。今でも心から貴方を愛している。大丈夫、貴方は私が思った通りの貴公子になった。私の誇り。

高校一年生の時、貴方の席は私の隣だった。貴方は、まだ中学一年生みたいにあどけなかった。帰国子女と聞いていたから、おぼっちゃん貴公子だと思った。本当に純真で無垢なアメリカ帰りのスマートな貴公子。それが貴方だった。

初めて葉書が届いた日のことは、よく覚えている。大学から家に戻ったら、季節外れの苺と一緒に母が、大切そうに、テーブルの上に置いてくれた。アメリカから届いた絵葉書だから、すぐに貴公子様からだと分かった。母はニコニコしていた。羽田空港に迎えに行くのなら、頑張って、素敵な洋服縫うといってご機嫌だった。一橋大学に入ったのね。一橋大学のことは、ほとんど何も知らなかったけど、一番好きな大学。シックでスマート。貴公子様にぴったり。貴方の家はみんな東大なのに、私のお気に入りと確信して、一橋大学に決めて入った。この世にそんなことってあるの。嬉しかった。すぐ母に羽田に行くと宣言してカレンダーに印をつけた。

貴方が帰国するまで10日しかないので、その日の夜、母と洋服のデザインを決めて、翌日2人で御徒町まで生地を選びに行った。オレンジとピンクのちょっと大きめの花柄模様が透き通る薄いレース生地があった。考えていたデザインにピッタリ。母と抱きあって歓喜したこと覚えている。ツイッギー顔負けの、控えめなフリルを入れた、ミニのワンピースが縫い上がったのは、貴方が羽田に着く前日。それまで、毎日、母とキャッキャッ騒ぎながら、本当に楽しく何度も仮縫いしてドレス作りした。父はなかば呆れていたけど機嫌が良かった。母は裁縫が得意でどんな洋服でもつくってくれた。このドレスは今でも一番のお気に入り。

生まれて初めて行った羽田空港は、出迎えの人でごった返していた。誰が誰だか分からない。前の方に行かないと、貴方は私がいることに気が付かずに出て行ってしまう…..と気が気でなかった。混雑の中、前に行くことは諦めて少し離れた後ろで貴方が出てくるのを待った。しばらくして、貴方が出てきた。私は恥ずかしいから、声をかけたり手を振ったりできずにいた。でも貴方から目を離さないようにした。ご両親はじめ、出迎えの人がしきりに貴方に話しかけていた。貴方は人気者ね。とてもその中に入って行けそうになかった。高校卒業以来はじめてみる貴方は、もうおぼっちゃまなんかでなく、洗練された青年貴公子だった。高校一年生の時に話して以来、一度も話したことがないから、会って何を話したらいいのか急に不安になった。視線を落としたその瞬間、「福田さん」と懐かしい貴方の声がした。ハッとして顔を上げると、優しい笑顔で「本当に来てくれたのだね 嬉しい ありがとう」と言った。艶のある透明な声が詩を奏でるように、雑踏を遮った。貴方のキラキラした瞳を見た。その瞬間、私は、貴方に恋をした。2人は、出迎えの人を後に、タクシーに乗って六本木のアマンドに向かった。私も何を話したか覚えていない。楽しかった。六本木?本当、オシャレ。貴方がそのまま外国を持ち帰ったようだった。家まで送ってくれて、両親にも挨拶してくれた。父は、照くさそうに応接間にちょっと顔を出し、「今アメリカから?」と聞いた。「はい。先程帰ったばかりです」と貴方は答えた。母は、嬉しそうにずっと一緒にいた。

高校の時のことは、ほとんど覚えていない。女子にはつまらない学校だったから早く卒業したかった。理系男子に全く興味が持てなかったし。学校全体が文学芸術からほど遠く、美意識のかけらもなく、予備校みたいだった。男尊女卑が当たり前って雰囲気で、男子中心の運動会も乱暴だと思った。ごめんなさい、だから貴方が活躍した棒倒しは野蛮だから見ていなかった。3年生の時、水泳大会の最後を飾る100メートル自由形に貴方がH組代表で出たことは知っている。1年生の時、確か、赤帽だったのに白帽に黒い線が何本も入っていた。凄いなと驚いたから覚えている。努力家なのよね。だって水泳部でもないのに、運動が苦手だったはずなのに、一夏で最上級になったのだから。

貴方は、帰国子女で英語が誰よりできたから、英語が苦手な私は羨ましかった。一度クラスの前で、貴方がエドガー・アラン・ポーの『Song』(1)を解説して朗読した。それを聞いて、泣いちゃった。知らなかったでしょう?

貴方は、この日本語訳を少し変えることで、この詩が驚くほど読み人にストレートに伝わるようにできると言った。特に、『Song』のような、作者の個人的な体験に基づいた詩は、その背景をよく理解して、感情の対象が誰なのか、分かるように訳す。すると、この詩が生きる。と、貴方は言ったのよ。そして、貴方はSongの改定訳を黒板に書いた。たった一語Though(だが)をNow(今)に変えただけ。


『Song 唄 (入沢康夫訳)』

ポオ全集3巻(東京創元新社 1963年2月20日)

君の結婚の日 私が君を見た時に

燃えるくれないが 君の頬を染めた。

今(だが) 幸福は 君を取りまいていた、

君の前で 世界は 愛一色に塗られていた。

君の眼に 点った光は、

(何であったにせよ その光は)

私の あわれにも傷ついた眼には

この世の愛らしさの 全てと見えた。

君が頬を染めたのは 乙女のはじらいのせいだろうーー

それだけのことと 見過ごされもしようーー

今(だが) そのほてりが 男の胸にかきたてたのだ、

ああ! いっそう激しい愛の焔を!

あの結婚の日 男が君を見たときに

深いくれないが たしかに君の頬を染めた。

今(だが) 幸福は 君をとりまいていた、

君の前で 世界は 愛一色に塗られていた。

凄い、凄い!全然わからなかったポーの英訳詩が、貴方の言葉ではじめて理解できた。

ポーの詩が生き生きと甦った。私たちと同年代の初恋。その予期せぬ突然の終焉。普段、無味乾燥が充満する教室の時が止まった。コトリとも音がしなかった。一編の詩で教室の白雲が動き青山が現れた。私は、ポーの絶望と二度の苦しみを思い、顫えた。貴方が神々しかった。

2年生になってクラスが変わり、それから卒業まで、一度も話すことがなかった。詩を朗読した時、貴方が見ていたのは、私の瞳に奥に潜む光だったのね。気づかなかった。私って本当に馬鹿ね。

大学の新学期が始まってお互い忙しかったけど、初めてのデートは、有楽町で待ち合わせして『華麗なる賭け』を見た。こんな感じの環境で育ったのねと思った。いつも、普通、学生の行かないところばかりに行って贅沢だった。ホテルオークラのコンチネンタルルームでマーサ三宅のジャズを聞きながら食事した。フロアで初めてのダンスもした。曲はオーティス・レディングの『(Sittin’On)The Dock Of The Bay』だった。雲の上でステップした。私の全然知らない世界ばかりで、夢を見ていた。貴方は、話が面白くて、聞くたびに気持ちが昂ぶった。お互いゴルフ部に入ったから、よく一緒に高輪プリンスホテルの広々としたドライビングレンジにも行った。

1年生の学期末試験が終わり、大学が休みに入ったまだ肌寒い早春、はじめて国立にある一橋大学に連れて行ってくれた。煉瓦造りの校舎が、森の中に威風堂々と静かに点在して佇んでいる。まるで外国みたい。感動しちゃった。正門から入った先は、まさに整然と植栽された外国庭園だった。その奥は大きな樹木で覆われた森。その中にロマネスク建築の図書館が建っていた。その前には、ヨーロッパの庭にありそうな洒落た長方形をした小さな池があった。石彫のライオンの口から水が流れ落ちている。それを囲んでベンチが逍遥と読書を誘うかのように並んでいる。

貴方は、冷たいからと言って、私の為に自分のマフラーをベンチに敷いた。2人で腰掛けた。暖かった。夕間暮れの残陽が池面に、遠慮がちに音もなく、浮かび沈んだ。葉風が僅かに残った枯れ葉を木から引き、池に落とした。

貴方の指が、私の指に触れた。温かった。

「君を 愛している」

指がふるえた。

「私も」 

2人ともそれ以上何も語らなかった。国立駅に向かった。帰りの電車でも何も話さなかった。時々触れ合う指が語った。

大崎駅に降りて暗いからと言って家まで送ってくれた。家の門の前に着いたけど帰りたくなかった。もう少し一緒にいたかった。何も言わず、腕を組んで、家の周りを何周もした。数分が何時間にも無限にも思えた。再び門の前に戻った。

貴方は、私の肩を抱いて 

 「愛してる?」  

 「……」

震撼が伝わった。動悸が打った。小さく頷き、目を閉じた。

温かい花信風が前を舞った。唇が触れ、重なった。その瞬間、私は「あっ」と言って玄関に向かって走った。全ての神経が唇にあった。幸せだった。瞳の奥に貴公子様がいた。

夏休みに入る頃、8月に家庭教師の生徒と軽井沢の別荘で合宿するから、1週間世話係として、「ゴルフ部の連中も一緒だけど、行ってくれる?」と誘われた。軽井沢はクラブの合宿で、何度か行ったことがある。大袈裟と思うかもしれないけど、日本で一番好きな場所。軽井沢の清々しい空気と木漏れ日が揺れる小道に点在する別荘がすぐ目の前に広がった。胸が躍り夢見心地。だから母に聞く前に、「行く!」と貴方に即答しちゃった。事後承諾となってしまうけど、お父さんには私から許してもらうように頼むから、「行ってらっしゃい」と母から促された。いつも後押ししてくれる母が大好き。父もよ。天にも昇る気持ちだった。大好きな貴方と1週間も毎日一緒。しかも、軽井沢で。貴方の別荘は、青山学院寮のすぐそばにあった。合宿の時、友達を誘ってこっそり見に行たりしていたから良く知っていた。スイス公邸の前にある、判で押したような瀟洒な軽井沢の別荘。入ったことがないから、いろいろ想像をして中の様子を絵に描いたり、それを母に見せたりして、ともかくその日から、浮き立つ気持ちを抑えられない毎日を過ごした。母が軽井沢にふさわしい可愛いベージュの夏のミニパンツスーツを作ってくれた。お揃いの帽子も。早く貴方に見せたかった。

「娘さんが軽井沢に行かないようにしてほしい」

貴方のお母さんから母に電話があった。出発の朝、母は、「言おうかどうか迷ったけど、言っとくね」と教えてくれた。もちろんそんな経験ただの一度もない。だから、突然、何かに殴られたみたいだった。聞いた瞬間体が凍った。それでも何とか気を取り直し、気にしないで行こうと決めた。軽井沢で貴方と相談できるし。軽井沢ルックも早く見てもらいたかった。

待ち合わせした時間に上野駅に着くと、貴方と生徒の海野君がプラットホームで待っていた。スタイルのいい、何よりきっと、中学時代の貴方みたいな子だった。貴方は洋服のセンスがいつも抜群だった。だからちょっと心配していた。でも、想像をはるかに超えて、私の出立ちを見てはしゃいで上機嫌だった。軽井沢に行く電車の中で、彼の中野の家の近所話で盛り上がり、海野君ともすぐ仲良くなれた。貴方が家庭教師に行く時、よく中野駅で待ち合わせして、終わるまでその辺りを散策していた。それが役立った。ともかく人懐っこい可愛らしい貴公子でホッとした。好きな食べ物が、私の得意料理ばかりだったこともあって何だか安堵した。一週間一緒の別荘生活は不安だらけだったけど、大きな問題がなくなって本当に良かった!

でも、私には、もっと大きな不安があった。車中ずっと、何を話をしても、変わり行く景色を見ていても、「それ」が気になっていて、時々物思いに耽っていた。

2日目の夜、海野君もみんなも早く寝てしまったから、2人で半地下のキッチンでウイスキーを飲むことになった。やっと2人。ローソクを灯し、別荘の恋人になった。貴方はいつも最高の恋人。少しのお酒で頭がぐるぐる回った。せっかくのロマンチックな語らいの時なのに、電話のことを、何度も、何度も、思い出した……………。

思い切って貴方に話すと、途端、自分を制御することができなくなり、堰が崩壊したように涙が溢れた。もうどうしようもなく、止まらなかった。

「何がいけないの?」 

「何が、何が、何が、」

「………」

奈落だった。

貴方は、きっと初めて聞いたのね。混乱して、困って、茫然としていた。すぐ、「ごめんね、本当にごめんね」と謝った。いつも最高の笑顔で優しい貴方が、そんな自信のない悲しい顔を私に見せるのは初めてだった。

「電話なんかしないで、母は、先にぼくに言ってくれればよかったのに」

そして、それからずっと強くないのにウイスキーをストレートで飲んでいた。

「すべてぼくが悪いんだ。両親に、ちゃんと説明しなかったから」

「君は何も心配しなくていいんだ」

「……………」

「何がいけないの? 私がここに来てはいけないの?」

「非常識なの?」

「……………」

「ふしだらなの?」

「……………」

「帰ったら両親と話をする。」

(貴方は、そう自分に誓ってた)。

「何を? 何を話すの?」

「きっと両親は世間の常識を考えている。ぼくは君との愛に夢中なのに」

「愛って話して分かるの?……」

「愛と世間では……。まったく時空が違うし……」

貴方は困惑していた。

貴方は、おぼっちゃま貴公子のままだけど、驚くほど意志は強靭。高校時代を思い出した。私は貴方なら何でも、必ず、やり遂げると信じていた。涙目に、貴方の瞳に灯る光を見ていた。夜が明けようとする時、キッチンの横の古びたベッド以外何もない部屋で、初めて貴方と結ばれた。愛を確信した。

貴方は、その後も夏の軽井沢に残り、別荘で過ごした。私は、美しい軽井沢の思い出に浸って、夏休みの残りを東京ですごした。貴方は、東京に戻ってからご両親と話した。でも、何も解決しなかった。軽井沢のことは数日のことだし、今となっては、終わった過去のできごと。私はご両親に嫌われた。それだけは明らかだった。会うこともなかったけど、嫌われていることは、ヒシヒシと伝わってきた。常識が分からない家庭で育った娘だって。酷く傷ついた。でも貴方を愛している。だから、いつも「そのこと」は、考えないようにした。

軽井沢から戻って1カ月位して、貴方も気まずくなって、青山の自宅を出た。高校・大学の親友の木本君と一緒にすむことになった。大学から甲州街道に向かって歩いて30分位の谷保というところ。大きな農家の敷地にポツンと建つ古い離れというか、小屋だった。東京なのに田舎暮らし。貴方と気兼ねなく会えるから嬉しかったけど……。青山学院からは遠かった。いつも青山であっていたから、正直、谷保はへき地という感じだった。

貴方の愛に包まれて、どこにいても何をしていても幸せだった。お互いの大学が休みの時は、いつも一緒。2人の共通の友達ともよく旅行したり、遊んだりした。大阪万博の時は、芦屋の叔母の家に泊まりに行った。貴方は大学がまだ2年半あったから、落ち着いていたけど、私は短大だったから、最後の学生生活を悔いのない日々にしようと必死だった。

父と母は、貴方のことが心底好きだったから、いつも応援してくれた。でもそれは逆にいつも私の心に隙間をつくった。貴方の両親を一層こころよく思わなくなっていった。「そのこと」を忘れている時は誰よりも幸せだった。しかしなにかにつけ、「そのこと」が心に染み込んでくる。どんなに努力しても、気が重くなった。どうしたらいいのか、わからなかった。

短大の卒業が近づき就職をすることになった。青山に本社を構えるK社に勤めた。貴方の実家の近くだから、不安もあったけど不思議と安心感もあった。軽井沢で結ばれてちょうど一年、どうしても一緒にいたかった。2人とも結婚しか思いつかなかった。国立で一人暮らしをしている貴方のお祖母様に会いに行った。結婚をしたいと話すと、諸手を挙げて賛成してくれた。瞬間、私は思いっきりお祖母様を抱きしめた。お祖母様は、素直に2人の愛を受け入れてくれた。その瞬間、「そのこと」は私の中から消えた。お祖母様は、初めて会った時から、優しい慈悲あふれる目で私を見ていた。

翌月、貴方は、ご両親とお墓参りで岐阜に行くことになった。その機会をとらえてご両親に2人の結婚話をする。そこで結婚を許してもらう。と、貴方は言っていた。

でもそうはならなかった。岐阜から帰ってきた貴方は憔悴していた。「卒業してから結婚すればいい」と言われた。会話はそれだけだって。顔から正気が消えていた。大好きな貴方の笑顔はもうなかった。

東京で貴方のお父様と、結婚について2人だけで、何度も会って話した。お父様は、丁寧に対応してくれた。そういう感じ。ただの一度も愛に触れることはなかった。話すことはそれしかないはずなのに。私は綺麗に磨かれた大理石と押し問答していた。ツルツルの石の上を滑って必死にもがいていた。お父様には、私の気持ちを理解しようとする雰囲気は微塵もなかった。貴方にも父と母にも言ったけど、貴方のお父様に対し誠心誠意お話した。その満足感はある……。けれど、話せば話すほど、心が空虚になり現実に目覚めていった。

『何でそんなに早く結婚する意味があるの?』

「愛しているからです。高校時代から育んできた愛だからもう止められません」

『………あぁ』

「つきあいは大学に入ってからですけど、お互い愛しています」

『そう………』

「だから、今、ずっと一緒にいたいんです」

『同棲すればいいんじゃない』

「酷い………正式に認められたいんです」

「愛なんていつまでも続かないことが多い。すぐ覚めることもあるし」

「………………愛が冷めるなんて考えたこともありません。それに覚めるなんて思っていたら、結婚したいなんて思いません」

「まぁそれにしても、愛だけでは生きていけないよ」

「………………。圭君は、既に自活しています。だから生活のことは心配していません。愛のない生き方はできません」

「圭は、まだ学生だから、今は勉強に集中する時だよ」

「結婚したら勉強ができないとは考えられません。それに、アメリカでは学生結婚はごく普通のことと圭君は言っていました」

「そんなに結婚結婚と言うなら、まず婚約しては?」

「…………………。そんな。投げやりに言われても……」

「結婚となると、常識的には、家のバランスも考えないと」

「…………………」

私の気持ちは、完全に無視された。空回り。画然とした違いを埋めることは不可能と思った。貴方が軽井沢で言った通りだった。 時空がまったく違った。噛み合わない。何も伝わらない。何も聞いてくれない。通い合えていない。慇懃無礼に合理化した自説を枉げることなく押し付けられている………そんな思いが募った。国立のお祖母様にあってから消えたはずの「そのこと」が、私の脳裏に再び現れた。常識のない家庭の小娘。今度は二度と消えることのない、まるで大理石の墓石に刻まれた文字のようだった。貴方の家族の中に、私の存在は何処にも無い。永久に無い。そう思った。そして現実という思いが浮かんで私を苦しめた。

その後、同じ不毛の議論が数ヶ月繰り返された。私は、ご両親に祝福されたかっただけ。貴方のこと愛しているから一緒にいたい。ただそれだけ。でも無理だった。希望は持てなかった。夢だった。

その年の暮れ、12月28日の役所終いの日に、婚姻届を区役所に出した。その足で父と母に報告しに大崎の自宅に行った。父と母は、温かく迎えてくれた。

「おめでとう 頑張るんだよ」「困ったら、いつでもなんでも言って」と祝福してくれた。

貴方の実家にも挨拶に行った。ご両親は怖しい顔をして、仁王立ちで待ち受けていた。開口一番、「何しにきた」と言い放った。玄関先で結婚を報告すると、

「勝手にしたことだから、出て行け!」

そして、押し出されるように玄関が閉められた。

予想していたことだけど、大声で一喝されると目の前が真っ暗になった。貴方は一言も言わず、真っ直ぐご両親を見て立っていた。山ほどの荷物を抱えて、お互い励ますかのように短い言葉を交わしながら、原宿駅に向かって歩いた。とめどなく涙が溢れた。

谷保から国立音大の横にある長屋に移り住み、そこが新居になった。6畳一間。お風呂は随分前から壊れて放置されたまま。トイレは汲み取り。2人の楽しみは、近くの銭湯に行って、その帰り隣の定食屋でアジフライを食べることだった。長屋では隣の部屋から漏れ聞こえる会話が悲しかった。貴方は、毎日アルバイト生活に明け暮れていた。荷物の配達員や英語雑誌の翻訳などをしていた。時給が一番高いと言って自動車教習所の指導員までしていた。アルバイトなんて一度もしたことがない貴方が、必死に、生活していた。大学の授業は、金曜日午後のゼミ以外一度も出席していなかったと思う。あんなに大学が好きだったのに。それでも愚痴一つ言わず、誰の前でも明るく振る舞っていた。朝、貴方は黒パンしか食べなかった。一番安くてお腹がいっぱいになるからだと思う。そんな貴公子の姿を見て胸がはち切れそうだった。私は、勤めを国立の楽器店に変えて、灰色のユニフォームを着たレコード売りになった。

3月に原宿のセブンスデー・アドベンチスト教会で結婚式を挙げた。その教会の挙式の条件は、そこの教室で聖書の勉強をすることだった。私は、短大がクリスチャン系だったから先生の講釈をおとなしく聞いていた。でも貴方は、時々無駄な抵抗したりして可愛かった。結婚式には、大勢の友人と私の両親親戚が集まった。母は、素敵なウエディングドレスを作ってくれたからひさしぶりに華やいだ。

貴方のゼミの教授は、本当に優しい先生。ご夫妻で仲人を快く引き受けてくれた。奥様は、いつもニコニコ笑顔で、すべてを包み込んでくれていた。

「乾杯!」  

「逆境に愛を選んだ君達の勇気を讃える」

一橋大学の深澤教授の、乾杯の挨拶は炯眼に富んでいた。何より温かった。貴方のご両親もお姉様もこなかった。それどころか、当日教会の神父様のところに電話が入って、結婚式を執り行わないように要請されたと聞いた。私は、再び夢から現実に押されていった。

新婚旅行は伊豆に一泊で行った。無理していかなければ良かった。車窓から見る景色も旅館も、食事もすべて悲しみに満ちていた。1年半前の軽井沢が、遥かに涙に霞んだ。墓場に向かっている。国立の暗い部屋に戻った。初めて喧嘩した。私がなぜ悲しそうに振る舞うのか。貴方は理解しているけど理解したくない。そのことは明らかだった。それが分かるから辛かった。貴方は、ご両親に対して何もできない自分に酷く怒っていた。ひ弱に見えるのに、何にでも真正面から向かっていく貴方だから。「そのこと」の解決に一緒に向き合おうとしない私のことを情けなく不可解に思い、歯軋りしていたと思う。自分の境遇を自ら変えようとしない女。でも………。私にはもうほとんど力が残っていなかった。

「やはり両親も姉も来なかったね」

「…………」

「ごめんね」 

「…………」

「怒ってるよね」

「…………」

「ごめんね」

「…………」

「贅沢できないから?つまらない?」

「そんなのじゃない」

「こんな生活嫌だろ?」

「…………」

「愛してる?」

「…………」「――……」「…………」

「聞いているんだ!」 

「…………」

「愛してる?」  

「分からない………」

「じゃあ、なぜぼくと結婚したの?」

貴方は畳の上に私を押し倒し私の上に跨った。

「痛い!」

「………何故!」

「何故?…貴方のご両親に対する復讐よ!」

私は、“復讐する為に貴方と結婚した” とはっきり言った。

貴方の目から、私の顔の上に、涙がぼたぼた流れ落ちた。私の涙と一緒になって床を濡らした。

新学期に入り、就職先の研修も始まった。貴方は、トヨタ自動車に就職することに決まっていた。給与が日本一だからという理由。5月、名古屋の研修から戻った貴方は私に

「ちゃんとした新婚旅行に行きたい?」と聞いた。

「行くなら、バリ島」と私は絶対の無理を言った。

「姉が新婚旅行に行ったところだ」

そこからの貴方は凄かった。ソニーの懸賞論文の優勝賞品がバリ島旅行と知って、応募して見事に優勝した。13万人の応募の中で優勝するなんて!10月に2週間のバリ島旅行に行った。夢のようだった。貴方は、その旅行中ソニーの仕事に追われていた。1人でなく2人で行く条件は、バリ島に行く前後、ついでに東南アジア各国を回って、ソニーの仕事を手伝うことだった。そんなことを、大会社相手に学生の貴方が交渉したのね。私のために。貴方は、新発売のカラーテレビを記者クラブなどで、得意の英語でプレゼンテーションした。貴方が話すと、記者の人達がみな頷いていた。それを目の当たりにして、英語が上手なだけでなく説得力もあるのね、と思った。高校の時、貴方が『Song』の朗読をしたことを思い出した。EdgarとSarahが舞い降りていた。

バリ島から帰って、私は、貴方と別れる決断をした。旅行中、1人の時間が多かったからいろいろ考えることができた。貴方は、私がいなくても生きていける。私は、自分の傷を癒さなくては生きていけない。傷は貴方と一緒にいるとどんどん深く醜く痼疾になっていく。すべてに優先して「そのこと」を消滅しなければ生きていけない。その思いに囚われた。

1月3日、私は、私のことをご両親が無条件で受け入れてくれる中山君と、彼が運転する車で、国立の家に向かった。貴方が父と川崎大社に初詣に行っている間に。自分の荷物を手早くまとめた。私は生きる。それにかけた。そして、すべてを捨てて国立を去った。

最終章 「ブータンでふたり」

「貴方って、相変わらずね」を読んだ。君の声が聞こえた。何度も涙し、身震いし、肺腑がえぐられた。自分の不甲斐なさが昨日のように蘇り、こうしてすぐ筆をとった。君には、ぼくが貴公子にみえたかもしれないが、中味はかなりの子どもだった。君に恋して自分の愛に浮かれている天真爛漫な坊や。欲と嫉妬に眼が曇り「そのこと」を君の中から打ち消す能力がなかった。だから肝心なところで君を支えることができなかった。あゝなんということ。そのまま半世紀を無為に過ごした。

その後、君に自慢できる人間になろうと必死に頑張った。でも肝心な君の「そのこと」は時の解決に任せるしかできなかった。そう、2019年10月22日23時15分まで。その瞬間、解放された。しかし、自立と自由を確立し未来を確実に得た時、君はもうこの世にいなかった。いつも君が言っていたとおりだ「貴方って、相変わらずね」。

なんと君が水泳大会の100メートル自由型を見ていたとは。無茶が漸く報われた。50年以上も前のことだけど嬉しい。ビリから2番目だったから恥ずかしかった。ぼくの気持ちを伝えるせっかくのチャンスを逸した。白帽の黒い線を獲得することに、あの夏、命をかけた。一途の恋に生きる高校生にしか理解できない無茶。君に伝えたかったけど1番でゴールできなかったからみっともなくて言えなかった。恥をかいただけに終わった。

50メートル泳げない生徒は、目立つように赤帽を着用しなくてはならなかった。そして、水泳授業中は徹底的にダメ人間として扱われた。よくいえば、この屈辱から這い上がれというメッセージなのだろう。悪くいえば、一方的で画一的。たとえ、25メートル潜水しても、どんなに優雅に泳ごうとも、50メートルを泳げない生徒は赤帽という決まり。高等学校だけが伝統と命令に支配されているのではなかった。社会全体が理不尽な教条に支配されていた。慣習とか決まりの先にある真理に敬意がはらわれることは稀。社会の決まりに矛盾などない。それに挑戦するなんて奇人のすること。愛なんてずっと後ろに追いやられてむしろ邪魔扱い。自由は伝統と命令という常識に服従していた。アンチテーゼを挟む余地はなかった。自由放任教育を受けた帰国子女のぼくには理解できないことばかりだった。君はそんな馬鹿げたドグマに臆せず、すべてに対し、真正面向から向かって行く。そんな勇気をもった君は、ぼくの中で、いつも輝いていた。他人はいざ知らず、ぼくにはそれが崇高に思えた。そして、それが君の実存。そんな常識に立ち向かう君に憧れた。固定観念にとらわれない人、自由な考えを持っている人、おそれず未来を切り開く人。それが認識できるのは君に共鳴する勇気をもった賢者の特権。そう自分勝手にイメージしていた。ともかく、高校生のぼくは、まだそれを君に伝えるほどのエリートにも賢者にもなっていなかったことが歯痒かった。

アメリカでは、自宅にプールがある家は特別のことではなかった。ぼくがいたワシントンD.C.には海岸がなかったから、いつも夏は友達の家にあるプールで泳いでいた。スプリングボードから、ジャブンと、いろいろ工夫して飛び込む。そして、プールサイドから上がりまた飛び込むということの繰り返し。いかにカッコよく飛び込むか。独自のスタイルをもっていることが自慢だった。10メートル以上泳ぐ必要などなかった。

日本の学校のような25メートルプールはアメリカの学校にはなかった。プールすらない。だから一度もそんな長い距離を泳いだことはない。そのような環境で水泳に親しんでいたから自分が泳げないと思ったことは一度もなかった。むしろ、泳ぎは得意だった。友人宅のプールは、ジャンプ用のスプリングボードが主役だった。そして、庭の一部だから芝生の広がりに合うような円形だった。水は青く透明で爽やか。それに対し高校のプールは灰色のコンクリートで長方形。水は藻が繁殖し緑暗色に濁り底が見えなかった。兵隊の訓練場みたいで気色悪かった。その横で赤帽の生徒が一列に並び準備体操する様など地獄絵図に思えた。飛び込みをしてはいけないと注意された時は驚いた。アメリカの逆だ。泳ぐと飛び込みの人の邪魔になるからさっさとプールから出る。それがそれまでのエチケットだった。自由を奪い学徒出陣的な思想に基いて造られたプールと諸規則。学校のプールを見ると息が詰まった。そして、水泳のテストの時、初めて自分が50メートル泳げないことを知った。1年生の初夏、君が見ていたのは、校則によってダメ人間のラベルが貼られ赤帽を被ったぼくだった。学校のプールは、川や海を征服できるように肉体を鍛える道場であって美や社交の場ではない。先生と学校に対する失望に覆われ、わずかにあった学校愛は消失した。

この不条理をなんとかしなくてはならない。高校1年の夏休み友人達と琵琶湖に行った。北琵琶湖の近江塩津に小さな湾がある。無謀にも泳いで横断することにした。泳ぐことになった3人の中で赤帽はぼくだけだった。無茶。後の2人は遠泳の経験者だから数キロなんて意に介していない風だった。泳ぎ始めると、車ほどの大きな藻の塊がたくさん浮いていた。その中に絡まって死んでいる大きな鯉を見た。腹が天を向いていた。えっ、鯉でも水死するんだと動揺した。藻は大きな常識に集約されるドグマ。社会に存在し自己主張する、死に至る、硬直の塊。この場でそんなこと考えていたのでは溺れて死んでしまう。迷いを捨てこの現実を生き抜く。藻を避けて泳ぐことに全身全霊集中した。まわりを意識から遠ざけ黙々と泳いだ。何度もここで死ぬのかなぁと思った。でもいまさら引き返せない。無根拠だけど対岸まで泳ぎ切れそうな気がした。そうしなければ、生きなくては。何より、君に黒い線入りの白帽をかぶっている姿を見てもらえない。そう思うと、無茶にも重大な意味があると思えた。君を小波の先に見て、無駄な動きをしないように泳いだ。対岸に着いた時は、身体が石のようだった。あの鯉のように仰向けになって天を仰いだ。真上から降り注ぐ真夏の太陽が閉じた瞼を突き抜いた。ぼくは生きていた。晴天に君の名前を小さく何度も何度も呼んだ。翌年の夏、高校のプールは水たまりと見違えるほど小さく思えた。学校も先生も縮んでいた。

無限の生活をセントラルドグマにまかせるのであれば、愛なんてひとつの要素にすぎない。きっと邪魔なもの。当時の社会が掲げる大きな人生目的に対し小さなオマケ。それは制御すべき欲望である。一流大学を卒業して大企業に就職する、親が勧める結婚をする、家庭より仕事を優先して出世する。それができないのは人生の敗北者。愛に生きるなんて芸術家がする非常識。まともな社会人であれば理性に生き感性に生きるものではない。

この不毛な議論を、それをもっとも苦手とする君が、そう、不条理にも、愛の交渉を一手に引き受けることになった。ぼくの両親と何度会って話してもパラダイム(場)が違っているから、お互い不快感が積み上がるだけ。ぼくは、文学好きでまさに感性に生きていたから理性の人から見れば、天真爛漫な馬鹿。まったく君の力にならなかった。すべてをささげた愛が及ばぬ力などないと信じていたぼくは相当naiveだった。

そもそも感性では、もっというと感情では、入ってはいけないパラダイムだった。藻の中に囚われた鯉は哀れにも死んでいた。きっと、もがいて苦しんで死んだのだろう。あの鯉は藻の塊を上手く避けて泳いでいれば死ぬことはなかった。何故そんなところに入っていったのだろう。何か入らなくてはならぬ理由があったに違いない。そう思うと鯉が哀れだ。生きると決めたのであれば、現実を選び、上手に藻を迂回して泳ぐことは当然だ。生きることの方が大切だ。何かの夢を追って藻に突入すれば死がすぐ先にあることは自明だった。鯉の夢は一体なんだったのだろう。ぼくには、君に対する愛がすべてだった。

4月13日にブータンに入った。ここには下界のアクを無限の時で漉した無垢の空が、天まで広がっている。今や国会議員になった親友のペマ・テンジン君がパロ空港に迎えてくれた。入国管理と税関通過ゲートは、ブータン特有の張り出し窓部ラブセを正面に構えた建物の中にある。ペマ君が「ほらっと」指差すと、その窪みの上に、正装したかのような出立ちの可愛らしいシジュウカラがとまっていた。真っ白な胸に黒ネクタイをして、春風を抱き、羽毛をふわふわとふくらませて、「ツピーツピー ツピーツピー(こんにちは)」「ルッルッ ルッルッ(うれしい)」と鳴いた。ジェット機の残音が一瞬静まり、小鳥の小高い囀りが下に響いた。いたずらっぽい瞳でぼくを見ていた。不屈の透徹した鳴き声。ぼくは、すぐ君だとわかった。手を振ると羽を広げて呼応してくれた。赦してくれたんだね。本当に来てくれたのだね。嬉しい…ありがとう………。何度も、「ありがとう、ありがとう………。と言って君を見つめた。

ペマ君は空港から、山の中腹に位置する、谷を見下ろすロッジに案内してくれた。ベランダに座りペマ君と話していると向かいの山道に、タシ・ゴマンを背負って歩く人が見えたような気がした。タシ・ゴマンは、移動式のお社(やしろ)で、小型の窓のような引き出しがたくさんあるドールハウス風の箱。その中には仏典とか典籍などが収められている。村から村、家から家と、ラム・マニップという僧侶がそれを背負って移動している。この国は、仏法に生きている。あらゆるところにそれが現れているところが心地いい。

「ピュッ ピュッ(そうよ)」

君も一緒にここにいる。

アップル・シナモンティーを飲みながら、ペマ君が聞いてきた。

『圭は何故ブータンが好きなの?』

「天国に1番近いから」と、即座に答えた。

返答に迷うことはなかった。インドから飛んできたばかりだから。

機内から果てしなく続くヒマラヤ山脈の絶景を飽きることなくずっと見ていた。誰しも引き込まれるに違いない。7000メートルを超える山々が連なり、雲を下に従え、青天にくっきり氷河と天頂が切り立って浮かんでいる。その姿は荘厳で言葉を拒絶する絶対意志を顕示していた。宇宙意志を絵にするとこうなるに違いない。死ぬ前に見るべき景色があるとすればこれだと思った。

そう話すと、ペマ君も同じ思いと言う。

『ぼくも外国から帰る時、聳えるヒマラヤの山々を前にして、いつもすぐそこに天国があると認識する。ブータンの人は、自分は天国に住んでいる、ここは、この世のシャングリラだと……。自分にそう言い聞かせている。昔とだいぶ変わっちゃったけど……。年寄りは今でもほぼ変わらない生活をしている。』

「若い人もそれを見て、当たり前のこととして、自然に天国リビングを体現しているね。少なくとも自然を征服しようなどとは考えない。世界とはずいぶん違うね。」

ここは何が心地良いかというと、すべての生きものに優しく接する。先ほどホテルの部屋に入ると蝿が沢山いた。100匹以上。ボーイに蝿退治を頼んだら、部屋にやって来て、窓を開けて蠅に「ホウ…ホウ…」と声をかけた。すると、それにしたがってスッと蝿の集団が外に出ていった。びっくり!部屋に一匹も残っていない。殺虫剤を持ってくるものと思っていた自分が不遜に思えた。

このことをペマ君に話すと、『ブータンの人は、生き物はすべて、前世は自分のご先祖様だったかもしれないと教えられているから、この世ですべての生き物に優しく接するんだよ』 と教えてくれた。 

「ブータンでは輪廻転生が日常に生きているんだ!」

『そうだよ。つい最近までは頼めばラム・マニップが家に来て、仏様の教えの四聖諦を朗読してくれる。だから、仏様のことはみんなよく知っている。悟りを開くことがどんなに難しいことか、誰でも知っている。この2500年間で仏になった人は釈迦牟尼しかいないのだから。その次は4000年後のジャムパと言われているし。』

「それじゃあ、ほとんど全員が悟りに至ることなく何かの生き物に輪廻しちゃうと思うね」

『そう。悟りとは、自分の欲と嫉妬を完全に択滅することだから、普通の人間が悟りに至ることはほぼほぼ不可能だね。自分など存在しないというところまでいかないと悟りとはいえない。そんな人間はいない。仏法の思想では、生きていること自体が四苦八苦に生きるというDisease(病気)。その病気のCause(原因)は自分というか”欲と嫉妬”。だからその原因をCure(治療)するには、自分を滅却するしかない。その宗教は、つまり仏法は、その手助けになるMedicine(薬)と考えられている。』

「なるほど。それでは、やはりあと何千年待っても仏様は出てこない。無理だね」

『ほんと。一生懸命努力をする人は沢山いるけど、完全に私滅できる人はまずいない。』

「そうなると圧倒的に輪廻となるね。逆の見方だけど、ひょっとすると、私滅しようとしている自分というか、その奥に潜む“欲と嫉妬”は、生命が生き続ける上で不可欠なものなのだったりして」

『“欲と嫉妬”がないと生命は継続できないってこと?面白い!きっとそうだね。“欲と嫉妬”が生命のドライバーだからそれを無くすと生きていけない。逆説的だね。』

「生命を良く観察すると、その可能性が高いよ。人間以外の生命の行動を見ると”欲と嫉妬”が如実にあらわれるのは、”生命の継続”にかかわる食と生殖の行使の時だけ。」

『確かにそうだね。人間以外の“欲と嫉妬”は本当にシンプルで分かりやすい。普段おとなしい犬でも餌を取り上げようとすると怒るよね』

「犬に向かってブサイクだねと言っても怒らない」 

「ピユッピュッ(そうそう)」

『人間はそれ言われると怒るよね。生命の継続に何の関係もないのに。』

「ぼくが言いたいのは、生命の“欲と嫉妬”は生命の継続に必須のエネルギー源に違いないということ。“生命の継続”を“生きる魂”⑨⑫と言うとわかりやすいと思う。当たり前だけど、この“生きる魂”を人間も含めてすべての生命が体内のどこかに持っている。多分遺伝子の中に。まるで生きるための指示書みたいにそれが細胞核内の染色体に内包されている。それも生命の誕生の時から存在していて、ずっと引き継がれている。」

『人間と他の生命とどこが違うの?』

「人間だけが言葉を持っている。複雑な言語を発明した。それを駆使して”生きる魂”を複雑怪奇にして自分を撹乱して生きている。そう思う。何故かは想像つくけど……」

『人間は他の生命とは別格で、食と生殖という“生命の継続”だけに生きているのでは無いと言いたいのかな?他の生命と違う。もっとレベルが高いと。』

「ジィジィ(いいえ)」

「そうだと思う。ぼくの疑問は、何故人間はそれというか”生きる魂”を率直に見ようとしないのかということなんだ。」

『直視すると不都合なのかなぁ』

「他の生命と一緒ということを認めたくないんじゃない」

『人間は、進化してすべての生命の頂点に立っているという、百尺竿頭に座する底の人の驕り』

「滑稽だね。今人が信じている進化論には科学的な根拠が無い。自分勝手な仮定にすぎないのに。他の生命は、根本のところで人間より賢いから、きっと、そのことに気がついて生きている。」

『本当だね。夜空を見て”我々はどこからきたのか、何者か、どこに行くのか”なんて考えている虫も鳥もいないからね。そんな暇があったら星なんか見つめる前に食べ物を探している。だって、ボーッとしていたら飢え死にするか食べられてしまうもの。ところで圭が考えている“生きる魂”って生命を継続せよという天の声?』

「ピュッ ピュッ(そうよ)」

「そのようなもの。生命の目的は、意外と単純で“生命の継続”にあると思う。それが生命の根本にあるドグマだと思う。そしてそれは人間も含めてすべての生命の根幹である遺伝子に組み込まれていると思う」

『ともかく生きて子孫を残せが生命目的ということだね。ドゥクパ・クンレーだ!その”生きる魂”という絶対意志というか宇宙意志みたいなメッセージがすべての生命にあって、それが、代々引き継がれている』

「そうだと思う。人間も、その目指すところは他の生命と同じで“生命の継続”なのに、これだけでは超点に立つもののプライドが許さない」

『なるほど。生命の根源は”汝、生きよ”だね』

「きっとそうだね。生命の遺伝子を代々遡るとその”生きる魂”のおおもとに辿りつける。」

『そのルーツ探しは人間の起源まで?』

「ヒトの起源でなく、もっと先」

『地球生命の起源ってこと?』

「そう。すべての生命に共通して”生きる魂”が入っている」

『人間だけでなくすべての生命に広がっているということだね。』

「広がっているというより元々あるということ。あるどころかそれが生命の起点だと思う。そして、生命はきっと地球だけでなくあの世というか宇宙空間に溢れている。そして、始まりも終わりもない定常の世界に生きている。でもその起点は神のみぞ知るだ」

『圭の言うとおりだね。ブータンは、この世もあの世もグルグル回る仮の世だから』

「ピュッ ピュッ(そうよ)」

『雨の詩』  

空から雨が降ってくる。

いつもと同じ雨、なのに今日は不思議

雨が 耳元で囁くの。

私は 宇宙からきたって 彗星に乗って。

お空で お水の洋服つくってもらって 風に揺られて

降りてきたばかりだって。

ここはどこ?と聞くから

地球よ!と教えてあげた。

たくさんお友達つくって 早くお空に帰りたいって。

「ピュッ ピュッ(私もその通りよ)。

無限の宇宙に溢れる生命。無限の場に住む生命。無限の中で特別は特別でなくなる。広大無辺の世界では、現実も生活も取るに足らない極微の一コマに過ぎないただのチリ(塵)。しかし、愛は違う。愛はすべての生命の生命目的の根底にある“真理”。たとえそれがどれほど簡単で冷酷な原理であっても…………。愛を語るに言葉はいらない。”生きる魂”。五感の昂揚と悲嘆だから。愛はどこまでも普遍の実在。その愛と緊張関係にある理性は、重さとか長さとか大きさで因果関係を測る。愛は違う!だから、そして何より理性を金科玉条とする社会や伝統などには普遍性がない。普遍性どころか未来もない。あるのはそれがもたらす一時の満足と安寧だけ。これを幻想という。本当の本当ではない。しかし、それはどこかに秘められた“欲と嫉妬”によって、不満と不安に変わる運命にある。人間社会は、この繰り返しで絶望しかない。これをいくら議論しても不毛。2人の愛には不要な議論だった。

夜明けに小鳥がやってきた。

「ツピーツピー(こんにちは)」

ちょっと待って。今、窓開けるね。

「ルッルッ(うれしい)」

この指にとまって。

「ピュッピュッ(はい)」

昔みたいに詩を読むから聴いて。

「ルッルッ ルッルッ(うれしい!)」

『MY LOVE』 を朗読する。

『今 ひとり

何もしないで

ただ君のことを考えている

こんな幸せってない

何もしたくない

だから時を止め

ただ君のことを考えている 

こんな幸せ きっともうない

雪は時に乗って

ふかふかと

幸せを抱いて

静かに 降っている

愛しているから

愛しているって言うよ

ほんの少しの時でいい 君といたい

本当に少しだけでいい 君といたい』

「チュチュルッルッ(愛してる)」 

 『チュチュルッルッ(My LOVE)』 を朗読する。

『私も今ひとり

貴方のこと考えている

幸せ(チュチュ)

何もしたくないの

それをいいことに私も時を止め

ただ貴方のことを考えている(ルッルッ)

私も幸せ(チュチュ)

こんな幸せ もうこないことを知っている

窓の外は昨日からの雪で真っ白

大粒の雪が ふわふわと 幸せ抱いて降っている

愛しているの(チュチュルッルッ)

だから私にも

愛しているから

愛しているって言わせて

ほんの少しの時でいい

貴方に抱かれていたい

本当に少しの時でいい

貴方と一緒にいたい(夢よ「クックッ」)』

厳冬のブータン。朝は遅い。キラキラ舞う氷晶の先には、白が白に重なるヒマラヤ山脈が聳え、その遼遠は果てしない。そしてその冬空は紺碧の世界に至る。

昼近く掃除のメードが部屋に入ると2人はまだ眠っていた。暖炉の薪は久しく消え、余燼の香が薄く床に沈み、凍るような静謐が部屋を覆っていた。はたして2人が起きることは二度となかった。

2人が最後に読んだ一冊の本が、几帳面に、机の上に置かれていた。ローマ時代の哲学者セネカの「生の短さについて」。その最後のページには、 “人は、いつまでも、他人の生を奪い、自分の生も奪われ、互いに平静を破り合い、互いを不幸に陥れながら、実りもなく、喜びもなく、精神の進歩もないまま、(遠い未来にかける望みを抱いて)、生を送り続ける。“ と書かれている。

ページの余白に2人の走り書きが綴られていた。

『すべてをささげつくした愛が、およばぬ力があるのだろうか』

    「やっと会えた」

    「うれしい(ルッルッ)やっと 2人よ」

    「このままでいい」

    「はい(チュチュ)。いいの」

そして、一行の手紙が添えられていた。

そこには、『LOVEそしてすべてに永遠の和解を。12月28日、MDRとKEI』と書かれていた。

特別のことなど何もなかった。時もない。2人は恋人。ただそれだけだった。

凍窓から、2羽の純白な小鳥が、さっと勢いよく閃光に輝く氷霧に飛びたった。

仲良くクックッって。

おわり。

桂 圭

2023年2月1日First Draft

2023年2月7日 Final Draft

2023年4月13日 Site Check and 最終稿(4月25日)

2023年9月16日 投稿or 出版

『Song(1827年)』原文

I saw thee on thy bridal day-

When a burning blush came o’er thee,

Though happiness around thee lay,

The world all love before thee:

And in thine eye a kindling light

(Whatever it may be),

Was all on Earth my aching sight

Of Loveliness could see…..

That blush, perhaps, was a maiden shame-

As such it well may pass-

Though its glow hath raised a fiercer flame

In the breast of him, alas!

Who saw thee on that bridal day,

When that deep blush would come o’er thee,

Though happiness around thee lay,

The world all love before thee

『Song』の背景

詩人(Edgar Allan Poe)は、久しぶりに、テネシー州にある大学から故郷のバージニア州に戻った。そこで、故郷を離れる時に、結婚を約束した恋人と再会した。が、それは、彼女(Sarah Elmira Royster)の結婚披露宴だった。Sarahは、Edgarから何の便りもない(Sarahの父親がすべての手紙を棄てていた)ので、自分は忘れ去られたと思っていた。Sarahは、Alexander Sheltonと知り合い、恋愛し、結婚することになった。何と、2人の久しぶりの再会は、その結婚式のパーティーだった。EdgarとSarah、2人は動揺した。

ここからが詩の解釈となる。つまり、”Though its glow hath raised a fiercer flame In the breast of him, alas!“の“him” それが誰なのか。この詩は詩人(Edgar)が語っている。“alas”とは、unfortunately(不幸にして)ということ。だから詩人(Edgar)のことではない。したがって、”him”とは、Sarahの結婚相手のAlexander Sheltonのことである。

その20年後Alexanderは若くして亡くなる。そして、EdgarはSarahと再び婚約するが、Edgarの早死によって、2人の恋が成就することはなかった(Edgar Allan Poe: 1809年〜1849年)。

[注釈1]

「四聖諦」とは、生きることは苦である(苦諦Disease)、それは自分の所為である(集諦Cause)、だから自己制御(滅諦Cure)して迷惑をかけないように(道諦Medicine)生きていかなくてはならない。

[注釈2]

「雨の詩」の解説

“雨は空から降ってきます。”

その雨の中には氷晶核としての宇宙1から降って来た生命の胚種が入っています。その生命の胚種は太陽の周りを周回する彗星2が蒔いていったテールの塵に含まれています3。その生命の胚種と凍結乾燥した細菌やウイルスや原虫や受精卵などです。それが宇宙空間に拡がり漂っています。その中を地球が通ります(彗星と地球の起動が交叉する)。生命の胚種の地球への旅が始まります。初めて大気圏に入るとき、少しショック4があって、それに耐えられない生命の胚種は絶えます。生き残った胚種はその後ゆっくりとしずかに数ヶ月5の地球大地への旅を楽しみます。そして最後の日に空の水6をからだにまとって氷晶核となった生命胚種に氷が付着して雪となり雨となり大地に降ります。だから雨も雪もただの水ではないのです。命7そのものです。

“お友達を沢山つくって”

これはダーウィンの進化論を地球という閉鎖系から宇宙への開放系に拡大した考えです。つまり、地球という狭い空間(閉鎖系)の限られた遺伝子による「突然変異と自然淘汰」ではなく、広大な多言宇宙(開放系)から地球空間に侵入する莫大な遺伝子による進化論です。そこで考えられるのは、生命胚種が宇宙空間に溢れているというパンスペルミア説とウイルス進化論です。それを簡単に説明すると、次のようになります。ウイルスは、自己増殖ができないため、それを細胞に依存します。そのためウイルスは細胞に侵入し、その中のDNAをハイジャック下形で自己増殖を行います。このときウイルスは、どの細胞でも良い訳ではありません。非常に選択的です。例えば、COVID-19にヒトが感染して98%死亡したとすると、これは98%の淘汰がCOVID-19ウイルスによって行われたということになります。残った2%がCOVID-19ウイルスによって“自然選択”された生物(細胞)です。そのウイルスは、その後この生き残りの2%と運命をともにすることを選択すると、その自然宿主のDNAの中で共生するという行動に出ます。これがヒトのDNAの46%に内在するウイルスの痕跡であるHERVです。このようにしてウイルスが地球上の生命の進化にかかわってきたと考えられています。古生代、カンブリア紀(5.42億年~4.88億年前)の生物の大爆発などは、閉鎖系のダーウィンの進化論で説明することは困難ですが、宇宙塵を由来とする(パンスペルミア説)とウイスル進化論を組み合わせれば科学的な説明ができそうです。

[[注釈2内の注釈]]

1 138±2億年前にできたとされるこの宇宙のこと。宇宙には数千億の銀河☓千億以上の星(恒星)と惑星などが存在している。

2 太陽系の中の1万~10万天文単位(1,496億km☓104)先のオールトの雲には、1,000億個以上(ハレー彗星の大きさだと2兆個以上)の彗星が存在している。

3 彗星の中にもともと存在していた生命(凍結乾燥した細菌やウイルスや受精卵など)を彗星が太陽を周回するときにテールが形成され塵となって宇宙空間に残していく。

4 最大で500℃(10気圧)位。細菌・ウイルスは数ミクロン(1/1,000ミリ)以下。

5 彗星がおいていった塵が地球の大気圏の中に入って地上に降りるまで。

6 雨は、宇宙塵などが氷晶核をつくり、それに水分が付着して氷晶となったもの。

7 宇宙から降下してきた原始的な生物に、その後宇宙から次々と降下してきたウイルスによって様々な遺伝子が挿入され、生物が分化していく(パンスペルミア説のウイルス進化論)。しかし、地球上の生物は、地球に留まらず宇宙に戻る。つまり、隕石が地球に衝突して地球の生物の遺伝子が宇宙空間に吹き飛ばされる(戻る)こと。ヒトは宇宙システムに従い、ヒト以外の生物は地球システムに従うことがDNAに規定されているのであろう。ヒトは、地球という惑星の限られたエネルギーを早く消費し、次の惑星で増殖する選好があるようだ。

[注釈3]

鳥語(Avian Language)

ツピーツピー     hello 今日わ

ルッルッ       happy うれしい

ピュッピュッ     yes はい

チュチュ       satisfied 満足

ジィジィ       no いいえ

チュチュルッルッ   I love you 愛してる

クックッ       Dream 夢

[注釈4]

含めなかった会話。

「人はいまだに哲学に生きる術とか、宗教に救いとかを求めているんだから。」

『1万5千年以上も確実に幸せから遠ざかって行っているというのに!』

「本当に馬鹿みたい。ヘシオドスのいう黄金の時代から鉄の時代になってしまってから既に3000年近く経っているのに。そろそろ目覚めてほしいね。」

『それは無理だね。人間は、自分を正直に見つめることができないから。誤魔化しの名人だから。ともかく、自分が自分の不幸の原因だと絶対に認めない。最悪。ところで、圭が今言った黄金の時代って、あらゆる生命(と神)が争うこともなく幸せに生きていた時代のこと?』

「そう。でもその後、銀の時代から青銅の時代へと人間は一直線に堕落し、幸せだった黄金の時代に戻ることはなかった。そして、既に3000年以上前に、今我々があくせく生活している鉄の時代になってしまった。その前の青銅の時代に、それまで何とか希望を持ってこの世に残った最後の2人の神は、人間の悲惨な行状に呆れ果てて、あの世に帰ってしまった。その結果、鉄の時代は正義を力に委ねることになった。」

『力(お金)が正義だなんて! それでは破滅に向かうことは明らかだね。』

2023年4月16日Punakhaにて。

「いつの日か、2人は恋人」を書き上げた。自分の人生の仕上げ。こんな人生を生きられたことが本当に幸せ。振り返ってみても、miracleだと思う。しかも多くの友人と部下に恵まれてhappyを共有できたなんてlucky。

所源亮

2023.4.16