どうもです。文章をアレコレするのを生業にしている自分に限らず、言葉を操る全ホモ・サピエンスにとって、かなり気になる記事を発見しました。(主語がデカイよ)
誰にも伝わらない残念な文章に共通する誤り
何はともあれ、次の文章を読んでほしい。
文章1
「人間はもともと無秩序な状態にあった外界を意味付けて秩序化している。しかし、これだけでは、外界は秩序化できるが、自分自身の混沌とした内面に向き合うことができない。」文章2
「私は川辺を歩いた。川辺にはごみが落ちていた。紙くずがいくつかと、空き缶やビンだ。紙くずのほとんどは新聞紙か、広告のチラシだった。新聞紙はしわくちゃになって、風に飛ばされている。川に落ちているものもある。新聞紙のほとんどはスポーツ紙で、いかがわしい写真なども目につく。缶やビンは、割れて川の中で太陽の光に輝いている。」この2つの文章を読んで、「いったい、この文章は何が言いたいんだろう」と疑問に思うのではないだろうか。文章1のほうは、言いたいことがわかりにくい。これを書いた人がいったいどういうことを思い浮かべているのかがわからない。文章2のほうは、いろいろと書いているわりに、ひとことで言って何を言いたいのかがわからない。もちろん、文章がわかりにくいときには、読む側の読解力不足、知識不足であることもあるだろう。たとえば哲学書や専門書には、優れたものであっても、難解なものが多い。また、どんなによい本であっても、扱っている内容について無知であれば、まったく理解できないことになってしまう。だが、それ以外の場合は、書く側に責任があると思って間違いない。(全部読む)
この記事を書かれたのは、ベストセラー本の
の著者の樋口裕一氏です。ええ、ええ、その昔読んだのですが、詳しい内容は飛んでしまってます。ハッとした記憶はあるので、今の自分の文章のどこかには活かされているはず…(適当ですね)
で、今回、この記事でもハッとしてしまったのですが、何にハッとしたかというと、、、私的にはですね、文章1も文章2も何が言いたいかわかってしまったのです。
いや、正確に言うと、
何が言いたいかわかってしまった気になってしまった。
という感じでしょうか。
これはモヤっとした文章から色々と受け取れる力、想像力というか、妄想力があるという言い方もできるカモ鴨長明ですが、裏を返すとですね、自分が文章を書く時にも、
「読む方はこう解釈してくれるだろう」
などと独り善がりな状態でモヤモヤと文章を書き進めている可能性があるということです。
えッ? 可能性じゃなくって、そうだよ? ええ、ええ、いつもすみませんね。
カモ鴨長明、そんなこと那須与一(友人からきた代案はナイチンゲール)、とか独り善がりもいいところですね。意味不明ですね、やめませんが。
毎日、LINEやメッセやメールなどで、何百〜何千文字といった文章を作成しているであろう現代人。
ええ、ええ、きちんと言いたいことがあるのに、要領を得ない文章を送って
「何が言いたいんだこの人、意味不明…」
となると、文章作成能力が低いノータリンと思われた自分にとってもマイナス、不快感を味わうことになった相手にとってもマイナスなことになります。
言いたいことはハッキリ、嫌味や自慢や恫喝にならないように、スマートに伝えたいですね。(文章不得手な人はこの際、口頭か動画がオススメ)
ええ、ええ、毎度毎度しつこいようですが、
文は人なり(by 高山樗牛)
です。文字を操って濃密なコミュニケーションをする人間にとって、テキストはその人そのもの。
書いたものを人に見せるのって、ちょっと恥ずかしかったりするじゃないですか。それって、きっとそういうことが影響していると思うんです。
自分が書いた文章は、自分そのものということが。
あ、ハイ、我はテキスト露出狂と化してしまったため、恥ずかしいとかほぼありませんが。(開き直って色々とさらけ出して生きてますね)
メールでも資料でも何でも、自分が書いた文章を読んだ誰かが、楽しい気分になったり、救われたり、ためになった〜と思えるよう、今後も日々是精進ですね。
あ、そうそう名刺もその人そのもの…というわけで、喪黒福造の幸せバージョンに憧れる自分を存分に表現した名刺作ってみました。
…名刺もその人出ますよね。イラストが入ってたり、アコーディオンみたいになったり(情報大杉栄?)、金属でできていたり(オッシャレです)。
名刺交換しても100人に98人くらいは忘れてしまうので(忘れ過ぎだよ)、覚えられるような名刺がいいですね。
以上です。